講演会参加記録帖
No.31
2011/01/09 (Sun) 21:40:36
講演日 2011年1月9日(日) 14:00~15:30
講 師 秋山 聰(あきやま あきら) 東京大学准教授
会 場 国立西洋美術館講堂先着140名無料
講 師 秋山 聰(あきやま あきら) 東京大学准教授
会 場 国立西洋美術館講堂先着140名無料
開催中のアルブレヒト・デューラー版画・素描展を娘と見に行ったら、運よく講演会があるという。これは新年早々運がいい。娘は講演会には興味がないと言うことで、展示鑑賞後現地解散となった。
140人定員のところ、聴講者は8割といったところか。学生さんと思しき若い方と、いわゆる中高年者が1対2という構成に思われた。講師の秋山氏は年の頃は40代後半?ひげを蓄えたスレンダーな紳士だった。話を聞きにきたのだから、講演者の容姿がどうこういってはいけないのだろうけど、むさくるしいおっさんを見るより、小ざっぱりとした知的紳士を見る方が、ちょっと嬉しいかも・・・、などと不謹慎なことを考えてしまった。
今回はA4のレジメ一枚が用意されていた。こういう講演会でレジメが用意されているととても助かる。講演内容をメモできるし、大まかな講演内容の流れも把握できる。
今回の演題は「デューラーにおける名声のメカニズム」というもの。講師の秋山氏、「一般的な美術講演とはちょっと違いますのでご了承を」とまずは前振り。なかなか心地よいお声です。まずはお話の内容の流れをざっと示します。このスタイルは東大の先生をしている方の特徴なのだろうか?以前参加した講演会でも、東大の先生は必ずといっていいほどこのスタイルを取る。
まずは、「名声」についての定義から。日本語では生きていても死んでいても、名声は名声だが、西洋では違うそうだ。生前の名声はラテン語でfama(bono fama)ドイツ語ではrumb(Ruhm)、死後の名声はラテン語でgloria ドイツ語ではgedechtnus(Gedächtnis)。
16世紀初頭のドイツ周辺の貴顕や学識者にとって、不朽の名声を確立することは重要な関心事だったそうだ。神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世はその著作のなかで、「死後の名声に関して生前からなんら手を打っておかなかった者は、その死後記憶されることなく、その死を悼む鐘の音ともに忘れ去られてしまう。」と書いているという。デューラーはこのマクシミリアン1世の宮廷に仕え、生前から死後現在に至るまで一貫した名声を保ち続けた画家であるが、その裏には、彼が一貫して自分の名声の確立と永続の為に戦略的に行動したという事がある!のだそうだ。
一体デューラーの名声戦略とはいかなるものであったか、いくつか例をあげて解説された。
① 第二次イタリア旅行(1505~1507)
当時、美術界においてはイタリアが最も先進の地だった。かたやドイツと言えば後進国に過ぎず、優れた技量をもっていても、先進地イタリアにおいてその力量を認めさせるか、大問題だったのである。そこで彼がとって戦略というのが、なんとも突飛で面白い。ベネチアのサン・バルトロメオ教会の祭壇画として制作した「薔薇冠(ロザリオ)の祝祭」ではなんと画面中央に座る聖母の膝に蠅が一匹とまっている様子が描かれているのだ。話題性で盛り上げて、実際に絵を見てもらえれば技量もわかってもらえるという寸法。もうひとつ、「12歳のキリスト」では、画面にわざわざ「5日間で仕上げた」と書いてある。つまりは5日間で描いたってこんなけ描けるんだぞ!!ってことですか!彼のこの作戦が功を奏したのか、イタリア滞在中も100年後もイタリアで余韻が残っていたと言うことだ。
② イタリアから帰国後フランクフルトの裕福な商人へラーの為に「ヘラー祭壇画」を制作したのだが、その制作過程で注文主ヘラーと書簡を取り交わしている。デューラーは注文主に工賃を上げろと交渉、注文主は「こんなことなら頼まなきゃよかった。」とか逆ギレしたらしい。デューラーはもっと工賃が欲しいけれど、この絵をフランクフルトにおいて欲しいからと、譲歩したらしい。当時からフランクフルトは交通の要所で、この地で多くの人に作品を見てもらってこそ自分の力量を人々に知らしめ、名声を確立する手段となると踏んだのだ。祭壇画の納入に当たって添えた手紙では、特別丁寧な描き方をしているので、適切な取り扱いをすれば500年間美しさを保つことができると豪語しているというからすごい。残念ながら現物は焼失してしまったそうだ。もし、現存していたら、彼の豪語した通りだったか見られたのに・・・・。残念!それにしても500年保証の保証書付きで納入ってどんんだけ自信があったんだろう?
デューラーに限らず当時の人々は、後世に不朽の名声を残す事に強い関心を持っていた。では、その名声をどのように表現するのか?その手法について解説がされた。
今でもそうだが、手っ取り早い方法は、評価の確立している人を引き合いに出すこと。日本でも新人歌手を売り出したりするときのキャッチフレーズとして「第二の○○」なんて言い方をするけれど、あの時代も同じだったらしい。デューラーはヘレニズム期の最大の画家とされたアペレスを引き合いにしてその技量がすごいのだと表現されたということだ。いわば、アペレスも真っ青・・て感じなんだろうなあ。アペレスというのはかのアレクサンダー大王が唯一肖像を描くことを許したという逸話をもっているそうだ。つまりは現代のアペレスであるデューラーに肖像画を描いてもらうという事は、モデルとなった人間がアレクサンダー大王に並べられる名声があるっていう事になるらしい。
今回の展覧会で、多くの銅板肖像版画が出品されている。銅板肖像版画の成り立ちと刻まれた銘文によるる名声確立の為のメディアという意義について解説がされた。
15世紀後半以降、印刷術については、ドイツが最先端であった。その技術によって銅板肖像画を印刷し、その画面に銘文として功績を入れて大量に流通させるという新しい方法が注目されたわけだ。
銅板肖像版画に描かれた人物とそこに入れられた銘文の例をあげて解説がされたが、デューラーとクラナッハ(父)が描いたルターの肖像作品が並べられ、なかなか興味深かった。
エラスムスを描いた銅版画は、エラスムス本人は似ていないと友人にこぼしていたという逸話など、とてもおかしい。
今も昔も、自分の成した功績を後世にも伝えたいという欲望は同じなのだろうけれど、デューラーとその周辺の時代人が涙ぐましいとも言える努力で名声を勝ち取り、それを後世まで残したいと思ったからこそ、
様々な作品が生まれているのかなあ・・・。そう思ったら、とても親近感がわいたのでありました。
秋山氏の声がとてもソフトだったので、途中朦朧としてしまったところもありましたが、とても面白い講演でした。
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