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講演会参加記録帖
No.
2024/09/29 (Sun) 04:21:54

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No.32
2011/02/01 (Tue) 22:34:06

講演日 2011年1月29日(土) 14:00~15:30
講 師 池田まゆみ (美術工芸史家)
会 場 サントリー美術館6Fホール
費 用 700円 要事前予約
 
ヨーロッパにおける磁器の発祥は18世紀。マイセン窯はその先駆者だった。18世紀フリークとしては、ぜひ押さえておかなければならないポイントでもある。サントリー美術館でマイセン磁器の展覧会があるというので心待ちにしていた。
 
池田氏は今回の展覧会の監修の中心的な方らしく、まずは、この展覧会のねらいについて簡潔な説明があった。
今回の展示は、国立マイセン磁器美術館所蔵の約2万点から160点を厳選し、開窯から300年に渡る歴史をたどり文化遺産としてのマイセン窯の姿を明らかにしていこうというもの。単なる名品展というよりも、マイセンが生まれた背景、発展の経過、マイセンのヨーロッパ文化に寄与したものなどに注目しているところがユニークなのだと強調されていた。
 
まずは、簡単に磁器についての解説がなされた。その後、ヨーロッパで初めて磁器製造に成功したマイセン窯の歴史秘話が語られました。
 
18世紀にはとんでもない人物がたくさんいるのだが、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世のぶっとびぶりはすごい。「アウグスト強王」と渾名された彼は、とんでもない艶福家で数え切れない女性と数え切れないほどの子供を作った。(後にフランス軍の元帥になったモーリス・ド・サックスは彼の庶子だった。)並はずれた女好きだった王は、磁器狂いでもあった。25,000点もの東洋磁器を集め、自らが開かせたマイセン窯の作品も35,798点を所有。在る時は、プロイセン王の所有する景徳鎮製の青花151個と騎兵600人を交換したというのだから恐れ入る。
 
ザクセンは銀や錫の鉱山が産みだす富みで栄えていたけれど、アウグスト強王が贅沢しすぎて、財政破綻に追い込まれ、起死回生と趣味と実益を狙って、磁器製造を企てたということのようだ。
 
ベルリンで捕まりそうになった錬金術師ベットガーを捕まえて、宮廷科学者チルンハウス等と磁器製造の研究を行わせ、ついにヨーロッパで初めて本格的な磁器の開発に成功する。この成功談の裏話がなかなか面白い。
 
お城の地下で研究させたが、極秘だったので、煙を外に出すこともできず、もうもうとした煙に我慢しなければならなかったとか、脱走した技術者が、古巣に戻りたくて、磁器絵具の開発者を連れてきたとか・・・。アウグスト強王は本物の動物園を作るとランディングコストが高すぎるから、磁器で迫真の動物像を作らせて動物園にしようとしたとか・・・・。
 
美しい素地に美しい彩色、塑性に優れ彫刻的造形が可能であることなどから、たちまち優れた芸術メディアとして洗練されていく様を楽しそうに語る池田氏は、本当に生き生きしていて、聞いているこちらも楽しくなってしまいました。
 
18世紀末、頂点を極めたマイセン窯も、時代と共にその姿を変化させて行く。それでも、新しい表現を求め、時代を映す鏡で在り続けたマイセン窯は、ヨーロッパにおいて磁器が「芸術メディア(素材)」の一つとして捉えられてきた事を示している。
 
最後に現在のマイセン窯の事について、触れていたが、なんと、原料であるカリオンの掘り出しはたった二人の男性によってされているそうだ。まさに、材料から手作りかい?と突っ込みたくなりました。
 
極めつけの裏話は、浮気現場をそのまま映したような人形が展示されているのですが、何と、浮気相手の若者の人形が開梱した時に行方不明だったのだそうです。ご亭主と同じ箱に入れて気まずい思いで旅をするのは気の毒とでも梱包担当者が思ったんですかね?別の箱から出てきたそうです。なんだかおかしくなってしまいました。
 
マイセン磁器の300年展、本当に楽しい展示です。親子でもカップルでも気楽に楽しめると思います。
 
 
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No.31
2011/01/09 (Sun) 21:40:36

講演日 2011年1月9日(日) 14:00~15:30
講 師 秋山 聰(あきやま あきら) 東京大学准教授 
会 場 国立西洋美術館講堂先着140名無料
 
開催中のアルブレヒト・デューラー版画・素描展を娘と見に行ったら、運よく講演会があるという。これは新年早々運がいい。娘は講演会には興味がないと言うことで、展示鑑賞後現地解散となった。
 
140人定員のところ、聴講者は8割といったところか。学生さんと思しき若い方と、いわゆる中高年者が1対2という構成に思われた。講師の秋山氏は年の頃は40代後半?ひげを蓄えたスレンダーな紳士だった。話を聞きにきたのだから、講演者の容姿がどうこういってはいけないのだろうけど、むさくるしいおっさんを見るより、小ざっぱりとした知的紳士を見る方が、ちょっと嬉しいかも・・・、などと不謹慎なことを考えてしまった。
 
今回はA4のレジメ一枚が用意されていた。こういう講演会でレジメが用意されているととても助かる。講演内容をメモできるし、大まかな講演内容の流れも把握できる。
 
今回の演題は「デューラーにおける名声のメカニズム」というもの。講師の秋山氏、「一般的な美術講演とはちょっと違いますのでご了承を」とまずは前振り。なかなか心地よいお声です。まずはお話の内容の流れをざっと示します。このスタイルは東大の先生をしている方の特徴なのだろうか?以前参加した講演会でも、東大の先生は必ずといっていいほどこのスタイルを取る。
 
まずは、「名声」についての定義から。日本語では生きていても死んでいても、名声は名声だが、西洋では違うそうだ。生前の名声はラテン語でfama(bono fama)ドイツ語ではrumb(Ruhm)、死後の名声はラテン語でgloria ドイツ語ではgedechtnus(Gedächtnis)
 
16世紀初頭のドイツ周辺の貴顕や学識者にとって、不朽の名声を確立することは重要な関心事だったそうだ。神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世はその著作のなかで、「死後の名声に関して生前からなんら手を打っておかなかった者は、その死後記憶されることなく、その死を悼む鐘の音ともに忘れ去られてしまう。」と書いているという。デューラーはこのマクシミリアン1世の宮廷に仕え、生前から死後現在に至るまで一貫した名声を保ち続けた画家であるが、その裏には、彼が一貫して自分の名声の確立と永続の為に戦略的に行動したという事がある!のだそうだ。
一体デューラーの名声戦略とはいかなるものであったか、いくつか例をあげて解説された。
    第二次イタリア旅行(15051507
当時、美術界においてはイタリアが最も先進の地だった。かたやドイツと言えば後進国に過ぎず、優れた技量をもっていても、先進地イタリアにおいてその力量を認めさせるか、大問題だったのである。そこで彼がとって戦略というのが、なんとも突飛で面白い。ベネチアのサン・バルトロメオ教会の祭壇画として制作した「薔薇冠(ロザリオ)の祝祭」ではなんと画面中央に座る聖母の膝に蠅が一匹とまっている様子が描かれているのだ。話題性で盛り上げて、実際に絵を見てもらえれば技量もわかってもらえるという寸法。もうひとつ、「12歳のキリスト」では、画面にわざわざ「5日間で仕上げた」と書いてある。つまりは5日間で描いたってこんなけ描けるんだぞ!!ってことですか!彼のこの作戦が功を奏したのか、イタリア滞在中も100年後もイタリアで余韻が残っていたと言うことだ。
    イタリアから帰国後フランクフルトの裕福な商人へラーの為に「ヘラー祭壇画」を制作したのだが、その制作過程で注文主ヘラーと書簡を取り交わしている。デューラーは注文主に工賃を上げろと交渉、注文主は「こんなことなら頼まなきゃよかった。」とか逆ギレしたらしい。デューラーはもっと工賃が欲しいけれど、この絵をフランクフルトにおいて欲しいからと、譲歩したらしい。当時からフランクフルトは交通の要所で、この地で多くの人に作品を見てもらってこそ自分の力量を人々に知らしめ、名声を確立する手段となると踏んだのだ。祭壇画の納入に当たって添えた手紙では、特別丁寧な描き方をしているので、適切な取り扱いをすれば500年間美しさを保つことができると豪語しているというからすごい。残念ながら現物は焼失してしまったそうだ。もし、現存していたら、彼の豪語した通りだったか見られたのに・・・・。残念!それにしても500年保証の保証書付きで納入ってどんんだけ自信があったんだろう?
 
デューラーに限らず当時の人々は、後世に不朽の名声を残す事に強い関心を持っていた。では、その名声をどのように表現するのか?その手法について解説がされた。
今でもそうだが、手っ取り早い方法は、評価の確立している人を引き合いに出すこと。日本でも新人歌手を売り出したりするときのキャッチフレーズとして「第二の○○」なんて言い方をするけれど、あの時代も同じだったらしい。デューラーはヘレニズム期の最大の画家とされたアペレスを引き合いにしてその技量がすごいのだと表現されたということだ。いわば、アペレスも真っ青・・て感じなんだろうなあ。アペレスというのはかのアレクサンダー大王が唯一肖像を描くことを許したという逸話をもっているそうだ。つまりは現代のアペレスであるデューラーに肖像画を描いてもらうという事は、モデルとなった人間がアレクサンダー大王に並べられる名声があるっていう事になるらしい。
 
今回の展覧会で、多くの銅板肖像版画が出品されている。銅板肖像版画の成り立ちと刻まれた銘文によるる名声確立の為のメディアという意義について解説がされた。
 15世紀後半以降、印刷術については、ドイツが最先端であった。その技術によって銅板肖像画を印刷し、その画面に銘文として功績を入れて大量に流通させるという新しい方法が注目されたわけだ。
銅板肖像版画に描かれた人物とそこに入れられた銘文の例をあげて解説がされたが、デューラーとクラナッハ(父)が描いたルターの肖像作品が並べられ、なかなか興味深かった。
エラスムスを描いた銅版画は、エラスムス本人は似ていないと友人にこぼしていたという逸話など、とてもおかしい。
 
今も昔も、自分の成した功績を後世にも伝えたいという欲望は同じなのだろうけれど、デューラーとその周辺の時代人が涙ぐましいとも言える努力で名声を勝ち取り、それを後世まで残したいと思ったからこそ、
様々な作品が生まれているのかなあ・・・。そう思ったら、とても親近感がわいたのでありました。
 
秋山氏の声がとてもソフトだったので、途中朦朧としてしまったところもありましたが、とても面白い講演でした。
 
No.30
2010/10/23 (Sat) 22:36:29

講演日 2010年10月23日(土) 14:00~15:00
講 師 マリー=ロール・ド・ロシュブリュンヌ
     ルーヴル美術館工芸品部門学芸員(2010年9月まで)
     2010年10月よりヴェルサイユ宮殿美術館学芸員装飾美術担当
会 場 ルーブル DNP ミュージアムラボ ホール 先着100名(要予約)無料 同時通訳付き

五反田の大日本印刷本社一階にルーヴル美術館と大日本印刷(DNP)がすすめる新しい美術鑑賞に関する共同プロジェクト「ルーヴル-DNP ミュージアムラボ」がある。ルーブル美術館の収蔵品を展示し、マルチメディアコンテンツを駆使したユニークな解説を楽しめる。

今回の展示は第7回目のもの。第3回のティティアーノの「うさぎの聖母」の展示の時も見に行ったが、体験型のコンテンツがなかなか凝っていて面白い。

第7回の展示はセーブル磁器。今日の展示開始を記念しての講演会が開かれた。講師の方はブロンドのワンレングスの素敵な女性。

ヨーロッパでは美しい宝飾品や工芸品、高価な食器を友好や同盟の証として贈る習慣は、古い時代からあるとのこと。元代の白磁の壺はヨーロッパ各地の王侯の手を経て、ルイ14世の長男の手に渡り、最終的にはイギリスの蒐集家の収蔵となっているそうだ。

中国や日本からヨーロッパに運ばれた磁器はヨーロッパの王侯貴族の憧れの品だった。白く固く美しい磁器は白い宝石とまで言われたそうだ。ヨーロッパで最初に磁器の製造に成功したのはザクセン王国ドレスデン近郊のマイセン窯。そのマイセンの技師が設立したヴァンセンヌ窯を、ルイ15世が株を買い取り、セーブルの地に移し王立窯として贈答用磁器の製造を行うことになる。セーブルで生産される磁器は、フランス王室から贈られる「外交上の贈り物」として珍重された。

外交上の贈り物として、ブルボン王家はタペストリーや絨毯、金銀細工などを贈っていたのだが、そこに新たにセーブルの磁器が加わる。

ではいったいどんなものが贈られたのか?
今回展示されている品について、解説がされた。1758年3月にセーブル窯の食器セットが最初に贈られたのはデンマーク王フレデリック5世。新しく開発された緑の地色が美しい食器セットは、34,542ルーブルもした。11ルーブル=1万円と換算しても、3億41千万以上か!!友好の証として贈られたそうだが、凄すぎる。このセットは後にロシアのエカテリーナ2世の手に渡っている。

次いで1758年12月にはオーストリア皇后マリア・テレジアに「緑のリボン」模様のセットが贈られている。これは同盟強化のために贈られたもので、ゴンドラを形どって作られた容器は完全オリジナルで同じものは他にないそうだ。185点からなるセットに、後に更に154点が追加された。

1760年には、プファルツ選定侯カール・テオドールに贈られたのは、122点のセットと55点の素焼きの食卓飾り用人形。こちらは地色が施されておらず、前者2者に贈られたものより簡素な印象。

1773年、マリア・テレジアの娘でナポリ王妃マリア・カロリーナに贈られたセットは彼女のイニシャルCとLを組み合わせたものが描かれ、華やかで愛らしいものだ。

1784年6月にスウェーデン王グスタフ3世が、ハーグ伯という偽名でパリにおしのび旅行に来た時、ルイ16世はマリー・アントワネットがテュイルリー宮で使うために発注したものを彼に贈っている。マリーアントワネットの為にまったく同じものが再度発注され、今回展示されているのは、蓋付鉢はマリーアントワネットのセットのもので、受け皿は、グスタフ3世に贈られたものとのこと。当時は国王が身分を隠しておしのび旅行で他国を訪問する事が結構あったそうだ。身分を明かして旅行すると、いろいろ儀礼的な行事を行わなければならないので双方面倒だからということらしい。1784年にはプロイセン公ハインリッヒもおしのびでやってきて132点の食器セットを贈られている。

こうした食器セットはどのように使われたのか?

現在、フランス料理のコースは料理が一皿一皿順番に個人にサービスされるが、これはロシア式。ナポレオンがフランスに取り入れたもので、それ以前はフランス式のサービス方法がとられていた。どんな方法かと言うと、3から8コースのコースから構成され、一つのコースごとに料理の皿がいっぺんに並べられ、会食者は自分で好きなものを前の皿から取り分けて食べる。一つのコースが約15分、コースごとに料理はすべて取り換えられるというもの。一人一人にサービス役が付き、飲み物はテーブルに置かれず、給仕係がその都度サービスするという方法だったそうだ。うかうかしていると、目当ての料理を食べる前に片づけられてしまうのか!

セーブルで製造された磁器には製造年や関わった職人のイニシャルなどが裏に書かれていて、そういったものと、残っている資料でかなり来歴がはっきりするらしい。

質疑応答の中で出たエピソードがなかなか面白かった。ルイ15世はセーブル焼の製品を毎年12月~1月に王の居室で展示即売会を開いて売ったそうだ。セーブルの売り上げの約半分がこの展示即売会でのものだったという。王様の寵愛を得るためには、セーブル焼きを買わなければいけなかったのだろうか?

各国に贈られた食器セットの多くは散逸してしまっているものも多いそうだ。ルーブル美術館も完全なセットは持っていないのだろう。以前エカテリーナ2世の食器コレクションの展示を見たことがあるが、美しい食器がテーブルに並べられる様はなかなかに迫力がある。外交というのは、軍事的な力関係だけではなく、美しく洗練された文化の力関係も重要だった時代である。その意味では、セーブル焼き美しさはフランスの国力を示す大きなアイテムだった事には間違いないだろう。
No.29
2010/09/19 (Sun) 17:02:39

講演日 2010年9月18日(土)14:00~15:30
講 師 フィリップ・ソニエ氏 オルセー美術館学芸員 展覧会コミッショナー 同時通訳付
会 場 横浜美術館レクチャーホール 先着240名 無料 

12時30分から整理券配布、ひと桁代の整理券をゲットして、展示を一時間ほど観賞。レクチャーホールのど真ん中の席を確保して、講演開始を待った。

オルセーの学芸員さんってどんな方かしら?と楽しみに待っていたところ、登場されたのが、な、な、なんとブラッド・ピットそっくりで更に彼を上品にしたようなハンサムでお若い男性。まだ40代にもなっていないのではないかしら?と思われるほど。もうそれだけでテンションあがります!!ご専門は19世紀美術だそうです。今回のカタログの巻頭にも「ドガ理解のために」という題で書かれています。
 
講演は、まず、「パステル」という画材の説明から始まりました。
パステルは顔料に粘土やアラビアゴムなどを混ぜて押し固めたもので、15世紀ごろから使われているそうです。最初はデッサンに軽く色付けするくらいだったのが、やがて、下絵やスケッチなどに使われるようになり、デッサンと油絵の中間的な位置を占めていきます。18世紀にパステル画は洗練され多くの作品が描かれています。美しい発色と即興的な制作が可能で、特に肖像画の分野で優れた作品が残されています。(例として、カンタン・ド・ラ・トゥールのポンパドール夫人の肖像やジャン・シメオン・シャルダンの自画像など)しかし、フランス革命後、肖像画需要が減ってパステルは上流階級のご婦人の趣味用画材となってしまっていったそうだ。ドガはそのパステルを自身の表現の中心手段としていきました。1876~81年に制作した作品の実に3分の2はパステルによるもので、生涯に700点もパステル画を制作しているそうです。そして1890年からドガは油彩画を1点も制作していないとか。
 
新古典主義的な厳格さや物語性を求める堅苦しさに飽きてきた画家たちはもっと即興的・偶発的表現を求めるようになってきていました。おりしもナポレオン3世の皇后ウージェニーのルイ16世様式への愛着が18世紀懐古趣味を生んでいたそうです。パステルという画材が再び注目されたという背景があるとのことでした。
 
話しはドガがどんな環境で画家を目指したかという点に移りました。
エドガー・ドガは本名イレール・ジェルマン・エドガー・ド・ガ(Hilaire Germain Edgar de Gas)。ドガの祖父はフランス革命後イタリアに渡り銀行家と成功していました。ドガの父親は祖父の銀行のパリ支店を開く為にパリに来て、ドガが生まれます。ドガ家は大富豪というわけではありませんでしたが、裕福なブルジョワ家庭であったことは確かです。彼は1855年エコール・ド・ボザールに入学しますが、数か月で通うのをやめて、父親にお金を出してもらって、フランス各地を旅行してまわり、帰ってきてからはルーブルで模写に精を出す生活。そして56年から59年まで三年間イタリアに滞在し、帰国後も、実家がある建物の上階にアトリエを設えてもらっています。ドガの父親は、息子の芸術活動に対して惜しみなく金銭的援助をしただけでなく、父親自身が芸術愛好家だった為、ドガが心置きなく芸術的模索ができるようにアドバイスもしたし、人脈も作ってくれたというのです。本当にドガって恵まれすぎるほどの環境にいたわけです。誰に媚びる必要もなく、純粋に自らの世界を模索できるわけですから・・・・。
 
ところが父親が負債を隠して亡くなり、ドガのこの快適な生活は一変します。1876年ごろにはドガは生活の為に絵を描かなければならい状況に陥ります。その時、ドガはパステル画という手段を選択します。色が美しく、油絵のように時間や手間がかからないパステル画は格好の手段だったのでしょう。それだけでなく、ドガはきちんとアカデミックな教育を受けた人なので、絵を制作する事=画布の選択、下地調整、絵具の調整、仕上げ等に対する厳格な姿勢を叩き込まれているわけです。産業革命や工業化によって、絵の世界も合成顔料などが登場し、絵具も自分で調整するのではなく製品として売られるようになっていました。その事に、ドガは不審と反発を感じていたようです。パステルはその製法が単純な為、信頼が置けると考えたようですし、ドガ自身が画材のテストなどをしてその堅牢度や耐久性を確かめたそうですから、なんだかルネッサンス期の画家見たいな面がある人だったのですね。とても真面目で自分の芸術に対する深い探求心を持っている!
同時代人がドガについて、どのように評していたか、また、ドガ自身が自分の絵についてどう考えているのかを書いたものを引用して、ドガの制作に対する考えなどが図版を交えて解説されていきました。
 
ドガは印象派展8回のうち、7回に作品を出品しているが、戸外で作品を書く事はしていない。競馬を描いた作品はあるものの、ほとんどが室内のもの。そして、踊り子の絵を描くにしても、見たままを描いたように見せかけながら、実際は入念にスケッチを重ね、モチーフを練り上げ、画面の構築をしている。それは伝統的な絵画制作の方法だったけれど、
題材の取り方、画面構成は非常に自由で、古典的な画題や画材の階級づけに囚われていない点が非常に先進的だったわけです。古典的な確かな技術に支えられた静かなる革新ですね。
 
お話を聞いて、ドガの絵が持っている、独特の突き離し感が納得できました。絵画史のみならず、18世紀~19世紀位の政治や経済などに興味を持って見るようになって、より印象派絵画の流れも理解できるようになってきたように思います。
 
講演後の質問コーナーで、若い学生さんが学芸員を目指しているが、どんな勉強をしたらいいかと質問しました。ソニエ氏は絵画史やっても食べられないよっとシビアなアドバイスの後、絵画だけでなくその時代の事を良く学び、その当時の人達がどのように見ていたのかをきちんと知ることだとおっしゃっていました。作品はあくまでもその時代に生まれるものですから、時代と切り離す事は難しいという事でしょうね。
他に2・3の質問も出ましたが、原稿がない質問については、通訳者さんが質問者の意図をうまく汲んで訳してくれないと、頓珍漢な答えが返ってくるんだという事がはっきりわかりました。通訳を介する質問の場合は、通訳者さんにまず自分の質問の意図がわかるように質問しなきゃいけないんだな・・・と感じました。
 
それにしても、ソニエ氏はハンサムで、声もよく、とても文学的な表現をされながらのお話で、目の保養と学ぶ楽しみのグリコ状態で楽しかったです~。
 
No.27
2010/07/31 (Sat) 22:08:48

講演日 2010年7月31日(土)14:00~15:30
講 師 荒屋鋪 透 氏 ポーラ美術館館長 展覧会監修者
会 場 横浜美術館レクチャーホール 先着240名 無料
 
まず、司会担当者から、荒屋鋪透氏の略歴紹介が行われ、次いで荒屋鋪氏の登壇となる。
ロマンスグレー(もう死語かもしれないが)の上品な感じの方です。
 
まずは講演の概要を示してから、お話が始まります。レジュメの配布などがあればいいのですが、今回は無かったので、まずどんな枠組みでお話をするのか先に示してもらえたのは聞く方としてはありがたいですね。講演はクロード・モネとアメデオ・モディリアーニを中心に作品を見ながら、近代絵画における「名画とはなにか」を探るというもの。
 
まず、ロンドンのナショナル・ギャラリーの展示状況の変化についてから話が始まりました。いわゆる18世紀以前の画家(オールドマスター)による作品から、19世紀以降、特に印象派の作品が大きな位置を占めるようになっているのだそうです。
今でこそ西洋絵画史の中心的流れに位置付けられている「印象派」ですが、そもそもの命名が、官展(サロン・ド・パリ)に拒否されたり、酷い扱いを受けた画家たちが1874年に自主展覧会を開いたときにクロード・モネが出品した「印象・日の出」にちなんでつけられたもの。実際、当時の画壇はアカデミズム絵画が主流であり、自主展覧会に出品された作品は、けちょんけちょんに批判されたのだとか。でも、モネはもやもやした画面を批判されたことに発奮して、次のテーマを、当時普及し始めた鉄道の駅「サン・ラザール駅」とすることにしたそうです。当時は蒸気機関車ですから、駅はその湯気やら煙でもやもやしていて当たり前。面白かったのは、モネが駅長さんに交渉に行った時のエピソード。
モネは一張羅を着込み、銀細工の柄がついたステッキを持って駅長に会いにいった。そして、他の駅とサン・ラザール駅のどちらを描くか検討した結果、サン・ラザール駅に決定したと交渉。つまりはわざと偉そうに振る舞って、まんまと駅長に駅構内で絵を描く許可を取り付けたって事ですね。フランスっぽい感じがして面白いエピソードです。
印象派展は8回開かれましたが、作品の直売をしたり、印象派に好意的な批評家に雑誌などに評論を書いてもらったりと、今でいうプロモーションをやっていたと言うのが興味深かったですね。今では当たり前の手法ですが、当時は目新しかったでしょう。
「失われた時を求めて」の作者プルーストがモネの画業を高く評価していた事や、ラベルの弦楽四重奏曲などが紹介され、絵画だけでなく音楽などとのかかわりが紹介されました。
 
次いで、モディリアーニの作品について進んだのですが、ここでは、ジェラール・フィリップとアヌーク・エーメがモディリア-ニとその妻を演じた映画「モンパルナスの灯」の一部が紹介されました。(ジェラール・フィリップファンとしては思いがけずお姿が拝めてうれしかった~。それにしても、アヌーク・エーメって本当に美しいわ~。ジェラールも美男だけど、彼女の隣に置くと物足らなく見えてしまうなんて!!)なんと、この映画の彼らの演技指導にレオナール・藤田が協力していたそうです。ジャン・コクトーが写したピカソとモディリアーニが一緒に移った写真なども紹介されて、なんだかびっくりしました。確かにモディリアーニが描いたジャン・コクトーの肖像画があるんですから知り合いだったはずですけど。芸術界と言うのは繋がっているんだなあと改めて感じました。
 
最後はちょっとピカソがセザンヌの事をとても尊敬していて、今回出品されている「裸婦」もセザンヌの作品のオマージュであるとして解説されました。
 
最後のまとめとして近代絵画において「名画」の条件とは何かという点について3点あげられました。ちょっと時間が押していて書きとめられなかったのですが、私の理解では、
「個性の表現の追求がなされているか」ということではないかと思った次第。
確かに、ピカソはピカソでしかないし、モディリアーニはモディリアーニです。ピカソ風とかモディリアーニ風の作品では名画にはなりえないってことでしょう。
 
最後に質疑応答があって、2人の男性が質問されました、荒屋鋪氏はとっても丁寧にお答えになって、結局講演終了は4時近くとなりました。こういう講演会には常連さんがいるのでしょうねえ。質問された方のお一人は、どうも他の講演会でもお声を聞いた事があるような・・・・。まあ、私も「ただ」にひかれて出来るだけ参加しようとしているのですから、お仲間ですねえ。
 
 
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